フェラーリと鉄瓶

フェラーリと鉄瓶―一本の線から生まれる「価値あるものづくり」

フェラーリと鉄瓶―一本の線から生まれる「価値あるものづくり」

久々の読書メモ。最近あんまりささる本がなかったもので。
著者の奥山清行氏は工業デザイナー。イタリアのデザイン会社、ピニンファリーナ社在籍時にフェラーリのデザインなどを手がけたことで有名な人です。

デザイン全般に言えることですが、あっさりして見えるものがあっさり作られたかというと大違いなんです。デザインした人の執念が身を結んでいるから、あっさり見えるんです。
それに、シンプルに見えるものの造りがシンプルかというと、決してそんなことはありません。ものすごく複雑なものを、整理してつじつま合わせをして、いろいろなところまで気を配って作ると、最後にはすごくシンプルに見えるものです。その証拠に、細かいところをよく見てみると、決してシンプルではないことがわかるはずです。

これはほんとそー思う。学生やってたときは世の中の諸々が整然と秩序だっているように見えたもんだけども、社会人の立場になってみると裏ではめちゃくちゃつじつまを合わせまくっているという。なんだかんだ頑張っている人がいるから世の中まわっているという当たり前のことにハッとさせられた。

デザインの世界でも、コミュニケーションは大きな鍵を握っています。ぼくはデザインの作業のうちで三分の二が、コミュニケーションではないかと考えています。
デザイン作業の最初の三分の一は、正しい人を探して、その人から正しい情報を引き出すことです。その次の三分の一は、その人のためのデザイン作業。多くの人がデザインの仕事だと思っている部分ですね。そして最後の三分の一が、できたものの情報を正しい人に正しく伝えること。この過程を経て、はじめてきちんとしたデザインができるわけです。つまり、最初と最後の三分の一ずつは、コミュニケーション能力にかかっているといえます。

これはデザインでもコンサルティングでもどんな仕事でも同じではないかなー。逆を言えば真ん中の部分を死ぬほど頑張っても頭とお尻が間違っていればあまり意味がないという。炎上しているプロジェクトって大抵さー・・・。

〜日本の社会は、いきなり自分の立場を脅かす者がいないので、余計なことは言わなくてすむし、やらなくてすみます。そのために、自分を守る努力をしないクセがついてしまい、それが発展して「自分」という基準をなくしている人が多くなっています。
「自分」がない人は、自分がやるべき仕事を選べず、結果として「何でもやります」という姿勢になりがちです。自分という軸がないのをごまかして、「お客様のためならなんでもやります」といっているのが日本の企業です。

自分の生き方への自戒をこめて。割とわがままにやってるほうだと思いますがw