エントロピーとチャネルと無意識

酒を飲んで帰りの電車の中でふと考えたことを書く。

人間の処理する情報は視覚や聴覚、嗅覚、触覚などなど一日だけでも膨大なもんである。
しかしながら日常の中では視覚と聴覚を意識的に使うだけで、他の摂取した情報は軽んじられやすい。
理屈としては二足歩行のバランスをとったり、飯を食ったりするのは無茶苦茶複雑な情報処理をしているがそこいらへんは無意識的である。

人間関係の相性やなんとなく居心地のいい場所とか、言語情報や視覚情報を介在させなくても(特に話をするというわけではないけど馬があう関係性とか)成り立つような関係性はいっぱいあるわけでそこいらへんはチャネルとしての人間の感覚器の可能性並びに視覚と聴覚偏重の限界を感じる。
ここらへんを考えていくと視覚情報としてのファッションや聴覚情報としての話し方といった比較的わかりやすいものとは別に、人の持つそれこそ雰囲気だとか格、存在感みたいなものもしっかり情報として処理されているんだなぁと思ったのよ。そんな感じ。