データベースと定食から考えたこと

7月からインターネットを使ったリサーチとかコンサルティングをやっている会社でアルバイトを始めました。データベースをいじってデータマイニングっぽいことをやるのが仕事です。
膨大なデータの中からすごくマクロな方向性みたいなものが見えてきたり、色々な切り口で分析することで見落としていたことがわかったりして中々おもしろいバイトです。やっていることは地味ですが。
ブログデータを抽出したデータベースをいじっていると、実に色々な人が色々な意見を書いていて、普段は全く興味のないサービスや商品の側面に気づかされます。普通に学生をやっていると、こういうマーケティング的なものの見方をすることはあまりないので結構ためになっていると思います。


んで今日も仕事を終え、行きつけの定食屋で晩飯を食いました。こういう仕事をやっていると不思議なもので、飯を食うにしても○○が食いたいというニーズが普通に何気なく、そこらの定食屋に入るだけで満たされてしまうということを新鮮に感じたりします。
安定的な食糧生産が量的にも質的にも確立していることがまず前提で、それらの食材が速やかに新鮮なまま流通していく強固な流通網がある。そんでもってそれらの食材をこれまた一定の水準で加工、調理して客にサービスする料理人がいて、飯屋は特定の衛生水準をキープし継続的かつ安全に人々の空腹を満たしていく。こういう当たり前のことのバックグラウンド、すなわち人間のニーズとそれを満たすサービス、商品との間にあるものに気づかされるわけです。


人間には様々なニーズがあり、常にそれはアップデートされていくものだと思います。上手いものが食いたいというニーズ、もっと生活を便利にしたいというニーズ、精神的な慰め(エンターテインメントとか)へのニーズなどなど。無数にあるそういったニーズがこれまでの人類の歴史の中で様々な工夫や努力で少しずつ埋められ、そういった膨大な歴史的な蓄積の上で今日の我々の生活があるんだと思います。リサーチのアルバイトをしていてインターネット上に散在するそうした諸々のニーズが、これからの企業の活動にフィードバックされ、世の中を便利に楽しくしていくとするなら中々感慨深いものがあります。


しかしながらそうした改善によって世の中が一方向的に良くなっていくかというと必ずしもそうではなく、時には何かとトレードオフがなされたり、時には失ったものの方が大きいということはざらにありそうです。それはマクロに観察するなら昔の奴隷制度だったり現代の環境問題、途上国の貧困問題だったりするだろうし、ミクロにみれば大人の抱くノスタルジーを誘発するものなんかがそうでしょう。


一方で企業が消費者の声に耳を傾け、苛烈な経済競争をやりながら世の中をどんどん便利にしていく。その一方で色々なものが我々があずかり知らぬところでどんどんトレードオフされていく。感情論でいうべきことではないと思いますが何か居心地の悪さ、気味悪さを感じてしまいます。眠くなってきたので今日はそんな感じで。